コンテストでプログラマー発掘 エニックス
エニックスはいまはあまりパソコンのソフトを手がけず、もっぱらゲーム機用のソフトを発売し、大きく成長してきたが最初はパソコンソフトから始まった。それも1982年ごろに優秀なプログラマーを集めてゲームホビープログラムコンテストを実施し、ゲーム開発の歴史に大きく貢献した。
本格ウォーゲーム
森田のバトルフィールド
第1回のプログラムコンテストは賞金が100万円と当時としては高額だったため多くの若手プログラマーが参加したようだ。その中で最優秀作品に選ばれたのが、今は「森田将棋」で有名な森田和郎氏の「森田のバトルフィールド」。当時は埼玉医科大の学生で、アスキーのオセロコンテストで優勝するなど既に名前はよく知られていた。
森田のバトルフィールド | 典型的なウォーゲーム。占領、 生産と進んだ |
歩兵、戦車、戦闘機、爆撃機があり、敵の都市を占領しながら首都に迫るという生産ルールもあり「大戦略」の原型のようなゲームだった。ボードゲームのウォーゲームの基本がきちんと押さえられていた。この時期としては、世界でも最高水準のPCウォーゲームだった。ただ相手の思考ルーチンが弱いことと、マップが一面しかなく何度もできないという欠点はあった。人対人でもできたが、これは時間がかかって面倒だった。森田氏はそのごエニックスでスクロールゲームのゼビウスをプログラムし85年には「森田将棋」を出す。
中村氏ドアドア鮮烈デビュー
中村氏のドアドア | ひたすら逃げながら相手を閉じ 込めるパズルゲーム |
森田氏には及ばなかったが優秀賞となったのがドラゴンクエストでおなじみの中村光一氏の「ドアドア」だった。パックマンタイプのパズルゲームでかわいいキャラクターが、追いかけている相手をドアに閉じこめて面をクリアするというゲーム。様々な仕掛けのある面が20もあった。中村氏はまだこのとき高校生だった。
風船を扇風機を使って倉庫に 運ぶパズルゲーム「FANFAN」 |
鍾乳洞の中でライトを頼りに進み面 をクリアする「ライトフリッパー」 |