将軍は本家、越前は嫡家

 松平と徳川氏

 江戸幕府将軍家を開いた家康は元々三河国出身で代々本貫の松平郷から松平氏を名乗った。今川義元が信長に敗れた後信長と同盟し、1561年三河を平定後1566年(永禄9年)徳川氏に改正した。(日本史小辞典より)
 徳川幕府家譜によると徳川氏は新田氏の末裔とされ、新田氏の開祖義重の4男義季が上野国新田庄世良田郷徳川村に住んだとされる。徳川家譜では義季は「徳川四郎、徳川を称号となす」と書かれている。しかし新田氏先祖というのは後に作られた可能性も高く、徳川村出身というのも真偽はわからない。
 徳川氏の正式歴史書「徳川実記」を読んでも松平から徳川への改称の経過はわからなかった。
 この徳川という名は、家康が1603年征夷大将軍となった後は秀忠以下の将軍家本家と後3家、さらに吉宗の起こした後三卿に限られ、将軍直系以外は松下姓を名乗った。
 家康の子の内徳川を名乗ったのは秀忠と家康晩年に生まれた御三家の義直、頼宣、頼房だけで秀康をはじめ尾張62万石の忠吉、水戸25万石の信吉、高田60万石の忠輝は松平姓だった。
 
 
家康の子で唯一松平を継ぐ
  
家康、秀康、忠直3代の三河守

 越前松平家は江戸幕府下で多数いた松平姓大名の一つと見られるかもしれないが、実は家康の子のうち最後まで家康本来の姓である松平を伝えたのは秀康の血統だけだったことを見逃してはならない。
 家康は三河平定後1566年12月29日叙爵し三河守を称する。
 秀康も結城家の養子になった後三河守を号し、さらに忠直も元服後三河守となる。
 忠直の子でいったん北の庄75万石を継いだものの高田25万石に移った光長は越後守、光長の実子綱賢は下野守だったが、綱賢の死去後光長の養子となった綱国(忠直の子永見正長の子)は三河守だった。
 

 徳川は本家、秀康は嫡家

 忠直が豊後に配流され弟忠昌が越前に入り、忠直の直系は越後へ移るという複雑な状況で福井藩の由緒を藩士に理解させる目的で1716年(享保1年)に一問一答形式で書かれた「越叟夜話」に次のようなくだりがある。
 「秀康公は台徳院(秀忠)様の正しき御舎兄様の儀に御座候へは、御当家の御本家なととも可奉申候哉」との問いに
  たとえ嫡子でなくとも次男3男を惣領に立て本家とすることが古来からあるとし秀忠が惣領に立てられ天下を譲られたのだから御当家からも秀忠の将軍家が本家であるとする。その一方で「御公儀様よりも越前の御家をば御摘家と御立置き遊ばされた事に候」と越前家を「嫡家」とする。だから越前の家は列国の諸家と違うとする。忠直の問題があっても弟の忠昌が相続し、忠直の子光長には特別の思し召しで高田25万石を与えられたのはその証拠だとする。また同じような本家と嫡家の関係を水戸藩と高松の松平讃岐守、仙台伊達藩と宇和島伊達藩などの間柄に挙げる。

 
福井が越前家の本家、越後は嫡家
 さらに「夜話」は「越後の御家と越前の御家とはいつれを御本家いつれを御嫡家と申へく候や」と問う。
 これに答えて「忠直公は秀康公の御嫡男として家督を継ぎその嫡男だかれ越後の光長が嫡男というべきだろうが」としながら「忠直が勘気を被った後越前の城を召し上げられその1年を過ぎてから別儀忠昌公に本家相続を仰せつけられ城領地を拝領した」しかも「本多伊豆(富正)はじめ諸家老中御家につとめ公儀の思し召しも以前と変わらないのだから御家を越前家の本家、越後を御嫡家というべき」と結論づけている。
 この「越叟夜話」を書いた大道寺友山は忠昌時代の1639年(寛永16年)生まれ。浅野、会津松平に使えた後1714(正徳4)年松平吉邦の時に福井藩の客分に迎えられた。この本を書いた時には既に福井藩は嫡家でないのに5代将軍綱吉の時所領を半分に減らされ、越後松平藩は越後騒動でいったんとりつぶされ、後津山松平家として復興するが往時の面影はなかった。
 越後松平の綱国が越後騒動で処分を受けた後、越前家から三河守を名乗るものはだれもいなかった。

秀康は松平を継いだ 忠直の謎