半知後の福井藩

25万石 忠昌大リストラ
8代吉邦幕府領預かり
30万石 宗昌松岡藩を併合
宗矩で秀康系途絶える
32万石 斉承将軍の娘迎え加増
将軍家斉の24男が藩主に

屈辱の25万石
   大リストラ2400人の解雇
 1686(貞享3)年福井藩は領地47万5282石を没収され、藩主松平綱昌の養父で前藩主の昌親に新たに25万石が与えられた。一応福井藩は存続を許されたが、藩主に将軍の名前の一部を与えられる偏諱(へんき)や葵の紋を使うことも一時許されず、江戸城の控えの間も変えられてしまった。将軍家門の名門から並の大名に転落してしまった。
 福井藩では大リストラが行われ女中も含めて2400人が解雇された。残留した藩士も給録は半分になる。府中(武生)の名門領主本多家も4万石から2万石に減らされた。この半知で冗漫だった福井藩の政治は締まり、倹約が求められるだけでなく、各種の法が定められ、体制が整った。昌親は1704(宝永元)年には将軍綱吉から一字が与えられ、吉品(よしのり)と改名、養子の昌邦も吉邦となった。
 幕府領10万石を預かり
 1710(宝永7)年藩主を継いだ吉邦は藩士の生活の改善に力を入れるなど、名君との評判をとり、将軍吉宗時代の1720(享保5)年には越前内の幕府領のうち10万石が福井藩の預所となった。預所はこの後増減はあるが幕末まで続いた。
 松岡藩を併合 30万石に
 吉邦は1721(享保6)年に急死。幕命で吉邦の異母兄で松岡藩主の昌平が継いだ。昌平は吉宗から一字をもらい宗昌と改め、この時松岡藩を廃藩としその5万石が福井藩に加えられた。これで30万石となった。
 忠昌、さらに秀康の家系途切れる
 宗昌は藩主になってわずか2年半で病死し、これで結城秀康の2男忠昌の血統は絶える。秀康の5男直基の曾孫となる養子の宗矩が継ぐ。宗矩は実子がなかったことから福井藩の家格を元のように上げることに執念を燃やし、将軍家の血族を養子として藩主に迎えることに力を注ぐ。秀康の系統という2代将軍秀忠の兄の家という誇りはそこになかった。将軍が紀伊家の吉宗に移り、秀忠系の将軍家に対する特別な思いという福井藩の運命的な呪縛が解けたという見方もできる、吉宗の興した一橋家から重昌を養子に迎え、1749(寛延2)年に宗矩が死去すると藩祖秀康の血統は福井藩においては途切れた。
 一橋、田安の指定席
  将軍の娘迎え32万石
 この後福井藩主は一橋家とそこから生まれる田安家の指定席となる。
 重昌は16歳で病死するが、一橋家から弟の重富が送り込まれてくる。
 重富から子の治好、孫の斉承(なりつぐ)と藩主は移る。斉承は世嗣時代の1819(文政2)年に将軍家斉の娘浅姫を正室に迎える。その縁で前年の1818年に2万石加増され32万石となった。これが幕末まで続いた福井藩領となる。
 将軍家斉の子が藩主に
 斉承も25歳で若死に、幕府によって将軍家斉の24男斉善(なりさわ)が藩主として送り込まれる。斉善は元服後の官位も正四位と高かった。しかしまたもや19歳で亡くなる。
 1838(天保9)年、幕末の名君として知られる慶永(春嶽)が田安家からやってくる。

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