織田氏のルーツは織田町の忌部氏 浅井は朝倉の属国だった お市、北庄城で勝家と自害 常高院、小浜で夫失う 勝姫、忠直の乱行と関係か
織田氏のルーツは織田の忌部氏
信長やお市ら織田一族は、福井県丹生郡織田町が先祖の地です。織田町に代々いた忌部(いんべ)氏が織田家のルーツだといわれています。しかし子孫のお市とその子らににとって、信長にとっても祖先の地、越前は呪われた地でもありました。
寺跡に先祖「親真」の名刻んだ石塔
織田町織田町織田にかつて法楽寺という中世に栄えた寺がありました。この寺跡に工場を建てようとしたとき、多数の石塔が見つかりました。その中から正応3年(1290年)の年号とともに「親真」と刻まれた石塔の一部が見つかりました。
この「親真」こそ「信長記」や各地の「織田系図」にでてくる信長の12代前の先祖(史料によっては15代前)親真だと考えられます。
信長記によると「親真」は平資盛の遺子で近江の国津田で育ち、織田の剱神社の神官をしていた忌部氏の養子になったとされています。これが織田氏は平氏の出という伝説の由来ともなっています。
一方織田町に伝わる忌部氏の系図では、母は平基度の娘で忌部親澄に嫁いで親真を生んだとし、「平氏ではなく忌部氏の正統だ」となっています。どちらにせよ親真は実在の人物です。
親真の後、忌部氏は代々剱神社の神官や織田町や織田の庄の地頭をつとめ、室町時代になって守護の斯波氏との結びつきを強めました。斯波氏が越前と尾張の守護を兼ねたことから、織田の一族が尾張で勢力を強め、信長の出現となりました。剱神社には、朝倉を滅ぼして、越前に入った信長が書いたという織田氏の氏神とする文書も伝わっているそうです。
美人だったというお市 お市と結婚した柴田勝家
浅井は朝倉の属国だった
お市が最初に嫁いだ北近江の浅井家は、越前の朝倉家と深い関係がありました。浅井長政がお市を迎え、同盟を結ぶときの前提条件が朝倉を攻めないということだったいわれています。最近は、浅井は朝倉の軍事指揮権の下にあり、北近江は越前の属国だったという研究が現れてきました。古文書などからはかなり有力な説のようです。だから信長が越前を攻めたとき、浅井が信長を討とうとしたのは当然の成り行きです。最初の越前攻めは、信長にとって最初の痛い敗戦となりました。敦賀から必死の思いで逃げ出します。
朝倉・浅井軍は、大津の戦いなどで信長を苦しめますが、時代の流れには勝てず、まず朝倉が滅亡し、すぐに浅井も後を追います。
お市と3人の娘は助け出されますが、長政との間にできた男子は秀吉によって殺されます。1573(天正1)年お市の最初の悲劇です。
北庄城で勝家と自害
お市は、1582(天正10)年、柴田勝家と再婚し、越前の北庄に3人の娘を連れて暮らします。柴田勝家の北庄城がどこにあったかは、正確にはわかっていません。福井市の足羽川に近い柴田氏神社の場所が有力視されています。天守閣は宣教師のルイス・フロイスが「屋根がことごとく立派な石で葺いてあった」と感心したという華麗な作りだったようです。天守閣は九重で安土城より立派だったという説もあるほどです。
信長が本能寺で討たれた後、秀吉と勝家の後継者争いが起こり、勝家は賤ヶ岳の合戦で破れ、北庄城も炎上。1583年お市も勝家とともに自殺します。
小浜に墓がある常高院 3姉妹の姉の淀の方
お市の娘も劇的人生
お初は小浜で夫を失う
お市の三人の娘は秀吉に保護され、長女はご存じ秀吉の側室の淀君。3女お江は徳川家康の3男で2代将軍となる秀忠に嫁ぎます。そして2女のお初は、京極高次に嫁します。関ヶ原の合戦後、高次は小浜城主となりますが、結婚してわずか11年後の1609年高次は死亡。お初は小浜に常高寺という寺を自らつくりそこに住みます。
1614年の大阪冬の陣では、3姉妹の縁で和議の仲立ちをし、結果的に豊臣の滅亡に大きな役割を果たします。家康からは後に300石が常高寺に寄付されています。1633年に江戸で死亡。墓は小浜の常高寺にあります。
孫の勝姫、忠直と不仲
お市の悲劇は孫の代も続きました。徳川秀忠とお江の間には家光、秀長の二人の男児と、4人の女子がいました。長女は豊臣秀頼 に嫁いだ千姫。2女は加賀の前田利家の孫で三代藩主利常に嫁した珠姫。そして三女の勝姫は将軍秀忠の兄、松平(結城)秀康の長男、忠直といとこ同士で結婚しました。一時期は加賀と越前に二人の姉妹が仲良くいたわけです。4女は後水尾天皇の女御として入内あいた和子です。
しかし越前ではお市のたたりか、忠直、勝姫は不仲だったといわれています。大阪夏の陣で大きな功績があげながら、恩賞がなかった忠直は不満を募らせ、さまざまな乱行を行ったとされています。乱行のほとんどは後に作られた伝説である可能性が高いのですが、忠直を勝姫の次女を切ったというのは事実の可能性が高いとされています。勝姫が忠直の乱行を密告したという説もあります。
忠直が大分に流された後、高田藩主となる長男光長とともに江戸に帰ります。しかし光長は小栗騒動といわれるお家騒動で改易となってしまい、忠直の血筋は途絶えてしまいました。
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