葵三代は本来こうだったはず
秀康の無念 忠直に伝わる
上の三つの像は忠直の越前の菩提寺である鯖江市鳥羽の長久寺にある肖像画です。忠直の死語22年後に作られたといわれています。
この寺には三代の像が大事に飾られています。本当はこちらが徳川の直系であるという秀康、忠直の思いが伝わってきます。
忠直の父秀康は、家康の二男に生まれました。母は家康の正妻、築山殿の侍女、お万で妊娠発覚後築山殿にいじめられ、家康の家臣で「鬼作三」と呼ばれた本多作衛門重次に助けられ、城の外で生まれた。家康にもなぜか嫌われ、顔がナマズに似ているということで「於義丸(おぎまる)」と名付けられました。三歳で長兄の信康のお膳立てで対面できたほどでした。
11歳で、小牧長久手の戦いの後、豊臣との人質に出されて、秀吉の養子となり秀吉にはその剛毅な性格を愛されました。家康も秀忠と比べて統率力に優れている秀康を養子に出したことを後悔したとされています。しかし養子に出された時点で徳川の相続権を失い、関東の名門結城家を継ぐことになります。弟で三男の秀忠が徳川家の惣領となり、関ヶ原の戦いの後、家康がなった将軍職を受け継ぎます。秀康は会津の上杉を押さえた功績で越前68万石を与えられ、制外の家として特権も与えられますが結局身分は秀忠の家臣です。豊臣方は形の上では一時秀頼と兄弟だった秀康に密かに期待し、一方秀忠は、秀康の江戸入りの時は、自ら品川に迎えに行くなど並々ならぬ丁寧な扱いで接し機嫌を損ねないようにしたといわれます。江戸参勤の時、鉄砲を並べて中山道の碓井峠を押し通るなど、屈折した思いを時に見せましたが何もないままわずか34歳で亡くなってしまいます。
制外の家の特権消える
この父の剛毅な性格は忠直に受け継がれたといわれます。しかし忠直の代になると秀康のような特別扱いはなくなり、将軍の娘を正妻にしますが、まさに一大名の扱いをされます。さらに18歳の時に、徳川譜代の筆頭家老で府中城主の本多富正と父秀康が召し抱えた次席家老で丸岡城主の今村掃部盛次との争い、いわゆる越前騒動が起こり、幕府の裁定で幕府大事派の本多富正が藩の実権を持つようになったことも不満を募らせる一因となりました。