太平記巻の7
新田義貞綸旨を賜ふ事
新田義貞登場
太平記北陸舞台の主役の一人新田義貞がこの巻に登場する。
上野国の住人、新田義貞は八幡太郎義家の9代の子孫で源氏嫡流の家だった。しかし北条の世に雌伏し命令に従って金剛山への楠正成攻めに加わっていた。「北条に威風に従ってきたが高時の行いで北条が滅びるのは遠くないだろう。本国に帰って義兵を挙げたい」と思い立ち家臣の船田義昌にに大塔宮の令旨を受け取りに行かせた。
船田が吉野・十津川の木こりを通じて得たのは、令旨ではなく後醍醐天皇の綸旨の形を取られた書だった。義貞は仮病を使い急いで本国へ戻った。(3月18日)
資朝伯州船上還幸の事
隠岐判官敦賀に流れ着く
1333(正慶2)年閏2月23日後醍醐天皇が隠岐島から脱出。名和長年の助けで船上山に構える。
2月29日後醍醐を監視する立場にあった佐々木隠岐判官清高らが三千の兵で攻め上がるが、折からの豪雨もあって後醍醐勢の勝利となる。
清高は命からがら舟で隠岐に逃げようとするが、隠岐の国人も後醍醐側に付いてしまう。行き場を失い、舟でさまよううち、狂風に流されて敦賀に流れ着き、都へ戻る。
現在でも冬は隠岐から越前へ強風に流されて難破船などが流れ着く。
1997年には重油を満載したロシアタンカーが隠岐の沖で沈没、その一部が大量の重油とともに福井県に流れ着いた。
「隠岐判官佐々木清高ばかり、からがら命生きて、小舟1艘に取り乗って本国に逃げ帰りけるを国人いつしか 心替わりして津々浦々をかためて相待ちける間、波狂風に随ひて、越前敦賀の津にぞつきたりけり」