将軍
足利尊氏
当主
朝倉広景 |
【足利尊氏の旗揚げ】
越前朝倉氏の始祖、朝倉広景は元々但馬の豪族で「朝倉始末記」などによると、1333年足利尊氏が丹波の篠村で北条に対する反旗を掲げると広景もはせ参じたという。この後足利一門の有力武将、斯波高経に従って越前に転戦したとされている。新田義貞が北陸王朝を目指して越前に下向した後は、斯波高経方で参戦し、義貞が討ち死にした藤島の合戦にも参加していた可能性は高い。 |
将軍
足利尊氏
当主
朝倉孝景 |
【足利家の内紛】
足利尊氏、直義兄弟が争った観応の擾乱、尊氏の息子直冬の反乱など足利家の内紛で越前守護、斯波高経は反尊氏の動きを見せる。これに従い朝倉広景を継いだ高景は京で戦ったとの記述が太平記に出てくる。 |
将軍
足利義詮
当主
朝倉高景
守護
斯波高経 |
【貞治の政変で地頭に】
足利直冬が敗れた後、高経は、幕府に帰参、2代将軍義詮の時代にはいったん高経の子の義将が1362(貞治元)年幕府執事(執権)となるなど斯波氏は権勢を誇るが、1366(同5)年、佐々木道誉との政変に敗れ、将軍から高経追討の命が下される。高経は越前に戻り南条郡の杣山(現南条町)にこもって抵抗した。
朝倉高景にも高経追討の軍勢催促状が将軍から出され、嫡子の氏景とともに越前に下り、高経方を攻撃した。幕府は斯波氏の越前守護を剥奪して畠山氏に与え、朝倉高景には東郷、棗、木部嶋など越前7カ所の地頭職が与えられたという。 |
将軍
足利義満
当主
朝倉高景
朝倉氏景
守護
斯波義将
|
【守護斯波氏が復権】
斯波高経が1367年に杣山でなくなると子の義将はすぐに許され、越中の守護に。管領を細川頼之を追放して管領に就任、将軍義満の信頼を得て越前の守護職を回復する。反斯波の行動をとった朝倉は冷遇され、この時期はあまり記録にも出てこなくなる。 |
将軍
足利義教
当主
朝倉教景 |
【永享の乱で関東出陣】
朝倉は氏景、為景と続き5代目教景の時代に鎌倉公方、足利持氏と6代将軍義教が対決する永享の乱が1438年起きる。朝倉教景も持氏討伐軍に加わって鎌倉に下った。「朝倉始末記」によると教景の教は将軍義教から一字をもらったものという。結城の乱にも出陣 |
将軍
足利義政
当主
朝倉教景 |
【長禄合戦】
朝倉氏は教景、家景と続き、7代の中興の祖孝景の時代に入る。1452年斯波氏の直系が絶え、越前の守護代甲斐将久や朝倉氏らによって傍流の義敏がたてられる。実権は甲斐氏が握りこれを斯波義敏が取り戻そうとしたことから両氏が不和となる。1457(長禄元)年、将軍義政の調停案に義敏が怒り、京の菩提寺の東光寺にこもったことから本格的な対立となる。京に義敏方の越前や尾張の国侍が上がり、乱暴を働き、越前から甲斐、朝倉、織田勢が出陣した。
★堀江氏活躍 守護方有利に
いったん和議が成立するも、すぐに甲斐氏が越前で蜂起し優勢に立つ。しかし守護方の堀江利真が京から越前に入り激しい戦いが越前各地で繰り広げられ、金津の甲斐方の代官が加賀に逃げるなど守護方が有利となる。
守護代甲斐常治の子敏光や朝倉孝景が急いで京から越前に入ろうとしたが敦賀で阻まれ、加賀からの侵入にも失敗する。将軍義政の和議工作も失敗し、甲斐氏が幕府の政所執事の伊勢貞親と縁戚関係があったことから幕府も甲斐方を支援し戦況は再び逆転する。
★斯波義敏越前に反転
鎌倉公方の足利成氏追討を命じられていた斯波義敏は突然江州から越前に反転して、甲斐方の敦賀城を囲んだ。幕府は義敏の追討を命じ、遊佐、狩野、岩室など加賀、越中勢が越前に向かい兵を進め、前年越前帰還を果たせず近江の海津に待機していた朝倉孝景や甲斐敏光も敦賀城救援に向かった。甲斐・朝倉の勢いに義敏軍は大敗。甲斐敏光は府中に入り、朝倉孝景も21の戦いを勝ち抜いて北庄に戻った。
★朝倉孝景 急速に力
1459(長禄3)年、堀江氏が再び勢力を盛り返し福井の和田庄で甲斐・朝倉方との本格的な戦いとなった。堀江方には朝倉の一族も多く、まさに越前の内戦となった。少数の甲斐・朝倉方が孝景の活躍によって勝利。朝倉内の覇権を確立した。さらにこの戦いの翌日に守護代の甲斐常治がなくなり、孝景の力が大きくなった。
守護職を継いだ斯波義敏の子松王丸は孝景に地位を追われ、足利一族の渋川義廉(斯波)が迎えられ、孝景に越前と越中に7カ所の領地が与えられたという。 |
将軍
足利義政
当主
朝倉孝景
守護
斯波義敏
斯波義廉 |
【応仁の乱 前半は西軍で活躍】
大内氏に身を寄せていた斯波義敏が幕府の政所執事、伊勢貞らの工作で許され、1466(文正1)年に斯波家の惣領にもどり、越前、尾張、遠江の守護に返り咲いた。しかしその直後に山名宗全によって伊勢貞親、斯波義敏が追放され、管領の畠山政長も解任され、斯波義廉が管領に。斯波と畠山が分裂し、政権から追われた斯波義敏と畠山政長は三管領家の中の実力者、細川勝元を頼り、斯波義廉と畠山義就には急速に力を付けてきた山名宗全がつき、さらに将軍の跡目をめぐる足利義政と弟義視の仲違いも加わりいよいよ本格的な戦いが間近になった。
応仁の乱は畠山勢の内紛から始まった。管領を解任された畠山政長は京の上御霊社に陣取り、畠山義就に相対する。義就には山名宗全、斯波義廉そして朝倉孝景も加わり、義就方が勝つ。山名の勢力拡大を恐れた細川勝元が参戦し、山名を西軍、細川を東軍として本格的な戦いとなった。
西軍で朝倉孝景の活躍はめざましく、若狭の武田信賢を遅い首を取りその前で酒宴を開いた。細川勝元の傭兵で足軽を率いて大活躍し、西軍を悩ませ続けた骨皮随賢を討ち取った。東軍にとって脅威の的で、斯波義廉が東軍に降参しようとしたとき孝景の首が条件になったほどだった。
【応仁の乱 中期は越前へ】
最初西軍に所属した斯波義敏が東軍に参入し越前に入り、斯波のシンパたちも勢いを盛り返した。朝倉党は国中から追い出さ、斯波が越前のほとんどを討ち取ったという噂が京に広まった。このため朝倉孝景は息子の氏景だけを京に残して越前に戻り朝倉の支配地域を回復した。
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将軍
足利義政
当主
朝倉孝景
守護
朝倉孝景 |
【応仁の乱 後半東軍に寝返り】
孝景の活躍に悩まされていた東軍は寝返り工作を行う。将軍から「味方をすればほうびを行う」との書状が伊勢貞親を通じて送られ、1471(文明3)年、孝景は東軍への帰属を明らかにする。このとき「守護職のことは望み申すに任せる」との将軍義政の御内書と管領細川勝元の副状が渡され、孝景は一気に守護の座に着いたとされる。義敏は将軍の命で大野に引きこもった。ただ朝倉氏の文書以外には守護に就いたことを客観的に示すものは少なく、将軍の御内書は後に朝倉氏が斯波氏に対する優位さを示すためにつくった偽文書という味方もある。 |
将軍
足利義政
当主
朝倉孝景
守護
朝倉孝景 |
【越前平定】
孝景が東軍に所属し、西軍の守護代甲斐氏との対立が激しくなった。甲斐氏のいる府中を攻める。甲斐氏に加賀からの応援があり激しい戦いとなったが、孝景の子氏景の奮戦で朝倉が勝利。府中を陥落させた。さらに長崎(丸岡)の甲斐勢を加賀に追い出した。加賀からの反撃もあり、金津や福井の一乗谷近くで激戦となったが朝倉が勝った。
甲斐氏との戦いを勝ち抜いた朝倉にとって残るは、斯波氏の本拠大野郡。実際は大野郡司の二宮氏が支配し、孝景は本拠地の土橋城を攻めた。中立を保っていた斯波義敏が土橋城に入り、将軍義政の義敏保護令もあって苦戦したが、二宮氏を追い出し、斯波氏を保護上洛させて越前の平定が完了した。 |
将軍
足利義政
当主
朝倉孝景
守護
朝倉孝景 |
【蓮如吉崎を退去】
本願寺派8世の蓮如は比叡山からの攻撃で京を追われ、1471年、越前と加賀の境の吉崎に御坊を開いた。朝倉氏が吉崎を寄進したという説もあるが、実際は越前の本願寺派の寺が招いたらしい。御文を多数発行し門徒を増やした。越前よりも加賀へ広まり、一向一揆が盛んになり守護の富田氏を脅かすようになる。一揆に危機感を持った蓮如はわずか4年で吉崎を去るが、越前を追われた甲斐氏と一揆が結びつき勢力を広げ富樫氏も滅ぼしてしまう。一向一揆の次のターゲットが朝倉となる。 |
将軍
足利義尚
当主・守護
朝倉孝景
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【中興の祖、孝景の死】
応仁の乱が終了、中央の公家や寺社は荘園や領地の回復を求め元関白太政大臣の一乗兼良らが越前を訪れた。しかし孝景は返還に応ぜず、斯波、甲斐、二宮で反朝倉連合が成立し中央の公家らも応援、1479(文明11)年加賀から侵攻し、金津や大野で戦いとなった。一進一退の戦いの最中1480年、孝景が病死した。 |
将軍
足利義尚
当主・守護
朝倉氏景
朝倉貞景
|
【長享の争論で支配権争い】
孝景の後は氏景が継ぎ、美濃の守護代、斉藤氏の調停で斯波義廉の子を名目上の主人として迎え、越前の実質的な支配権を幕府に認めさせた。孝景の死から6年後の1486年に38歳で亡くなり、貞景が13歳で継ぐ。1487年、将軍足利義尚が六角氏征伐を打ち出し、近江に出陣する。朝倉も将軍の命に従い参陣し、一方尾張の斯波義寛も守護代の織田敏定と出陣した。斯波氏は元家臣の朝倉と並ぶことを屈辱に感じ、朝倉を排除するよう将軍に訴えた。既に越前を実行支配している朝倉と、3管領の名門斯波氏との主張は激しく対立、細川政元が調停に当たり、結局あいまいなまな朝倉を将軍奉公衆に認めて決着した。 |
将軍
足利義材
管領
細川政元
当主・守護
朝倉貞景 |
【新将軍の近江再征伐】
9代将軍義尚(義煕と後改名)が近江の陣で病死し、義政が将軍職に復帰するが翌年なくなり、日野富子の要請で義政の弟で西軍のシンボルとなった義視の子、義材が10代将軍となる。義材は将軍の前将軍の遺志を継いで再び近江の六角征伐に乗り出す。再び斯波と朝倉の争論となり、斯波は近江に出陣、朝倉は争いを避けて参陣しなかった。10月には朝倉貞景を退治すべしとの将軍の命が斯波義寛に下され、将軍親征も噂されたが、実力者の細川政元が反対し美濃の斎藤利国も朝倉を支持し、戦いにはならなかった。 |
将軍
足利義材
足利義澄
当主・守護
朝倉貞景 |
【明応の変で将軍追われる】
1493(明応2)年、応仁の乱後も河内で畠山家の内紛が続き、将軍義材は畠山政長の要請を受けて畠山義就の子基家を討とうと出陣する。このすきに管領細川政元がクーデターを敢行。日野富子らの支持を得て、関東公方で義政の弟、堀越公方、足利政知の子を11代将軍義高(義澄)として擁立した。細川軍は義材、畠山軍を攻撃。細川方に参戦していた朝倉も積極的に加わり、義材をとらえ、政長を自殺させる戦いの中核となった。将軍が家臣に追われるという事態となり、実質的に戦国時代が始まった。 |
将軍
足利義澄
当主・守護
朝倉貞景 |
【越中公方】
1493(明応2)年、前将軍 足利義材は京をひそかに脱出し、畠山氏の領国で神保氏が実質的に支配していた越中に入った。能登の畠山義元、加賀の富樫氏らが従い、朝倉も京の細川氏に従いながら、越中にも使者を送った。義材は上洛を狙うが、朝倉氏の宿老、朝倉光玖が亡くなったのを機に加賀の甲斐勢が侵攻してきた。現在の金津から福井にかけて激しい戦いとなり、朝倉が守り抜いた。この影響で上洛はできなかった。 |
将軍
足利義澄
足利義尹
当主・守護
朝倉貞景 |
【越前公方】
1498(明応 7)年、義材と京との和睦ムードも現れ、義材は義尹と改名し上洛の途につき、朝倉、山名、赤松などが御迎衆になる。義尹は越前に到着すると一乗谷の手前の阿波賀の含蔵寺に迎えられた。次第は細かく朝倉から細川に報告された。翌99年、延暦寺が義尹方に立って挙兵したのを機会に義尹は出発、朝倉は従わなかった。延暦寺が敗れ、義尹はいったん敦賀にとどまった後、近江に向かうが敗退しいったん周防の大内氏のところへ逃れた。
義尹はその後1507年再上洛を目指し、細川政元が暗殺されたこともあって、8年に京に帰還し将軍義澄を追い、将軍職に復帰した。 |
将軍
足利義澄
当主・守護
朝倉貞景 |
【永正の一向一揆】
1506(永正3)年、近畿、北陸、東海で一斉に一向一揆が蜂起。特に越前には加賀から大規模な侵攻があり、朝倉氏は越前統一以来最大のピンチを迎えた。
この年7月まず一揆が大野郡で起こり、さらに加越国境から続々と侵入し、迎え撃つ朝倉勢と豊原寺などで戦いながら、朝倉の最後の防衛線九頭竜川に迫った。九頭竜川を渡られると一乗谷まで一気に迫れるため、朝倉は現在の福井市の中角、中ノ郷、永平寺町の鳴鹿の三カ所の渡河点で待ちかまえた。一揆は朝倉始末記によると30万の大軍。朝倉は1万余り。実際の数字ははっきりと分からないが相当差があったのは事実だろう。中ノ郷が最大の激戦地となり、朝倉方の若き総大将朝倉教景(宗滴)が少数で逆に渡河攻撃を敢行し、一揆勢を大混乱におとしめて大勝した。翌年の侵攻も県境の金津でうち破った。 |
将軍
足利義尹
当主・守護
朝倉孝景 |
【朝倉美濃・近江進攻】
1512年朝倉貞景が急死し、2代孝景が継ぐ。美濃の守護代斎藤利国が国内の乱れで危機に陥り、何度か美濃に出兵した。さらに近江に浅井氏が台頭。朝倉は1525年、いったん近江の六角氏に味方して出陣し、小谷に陣を構えたが、浅井久政はかえって朝倉との連携を深めるようになり、両氏の深い結びつきができる。浅井は朝倉の傘下にあったという研究者もいる。 |
将軍
足利義尹
足利義晴
当主・守護
朝倉孝景 |
【2代孝景御相伴衆に】
この間、京の政権は複雑に動く。細川高国が大内義興と組んで権力を握り、以前越前公方だった足利義稙が1507年、将軍に復帰。細川澄元を破り、さらに専横を強めた高国を嫌って義稙は京出奔。高国は、いったん京を追われ播磨の守護赤松氏のところにいた11代将軍義澄の子を迎え、12代将軍義晴とする。今度は細川澄元の子、晴元が阿波から攻め上がり、高国を討つ。晴元は最初、義晴の弟、義維を擁していたが、1534年、京に上がると青海から義晴を迎え入れた。この時、朝倉孝景は京を支える重要な大名として塗輿御免となり1538年には御相伴衆になる。 |
将軍
足利義晴
当主・守護
朝倉孝景 |
【若狭武田家内紛】
丹後の一色家の守護代、延永春信が若狭に侵入。和田(現高浜)に陣を置いた。孝景の妻が武田氏の出だったこともあり、幕府の命で朝倉教景を派兵し撃退した。孝景の舅の武田信孝が兄の元光と家督を争って破れ一乗谷に亡命。武田氏と朝倉は不仲となる。 |
将軍
足利義輝
当主・守護
朝倉義景 |
【義景五代目当主に】
孝景が1548年、56歳で亡くなり子の長夜叉が16歳で家督を継ぐ。最初延景と名乗ったが、20歳で将軍義輝の一字をもらい、義景となる。 |
将軍
足利義輝
当主・守護
朝倉義景 |
【軍奉行朝倉宗滴の死】
1555(弘治元)年、朝倉氏は長年対立していた加賀の一向一揆を一掃しようと朝倉宗滴を総大将に出陣する。上杉謙信とも呼応し、越後からは越中に出陣するという計画だった。宗滴は初代孝景の末子で、義景からすると大叔父に当たる。長年朝倉の軍奉行を務め、この時79歳だった。金津から加賀に入り大聖寺など3カ所にこもる一揆勢を攻め立てた。しかし陣中で宗適は病に倒れ、一乗谷に戻り亡くなった。宗滴は貞景、2代孝景、義景の3代の当主を補佐し、戦いに明け暮れた。「犬畜生といわれようと武者は勝つことが第一」という名言が「朝倉宗適話記」に残っている。
宗適に代わって朝倉景隆・景健親子が総大将なり、粟津、那谷寺一帯を焼き、手取川を越えて石川郡に入り、動橋、寺井まで攻め入ったところで将軍足利義輝のあっせんによる和議が成立し加賀から兵を引いた。一方上杉方の越中侵攻も川中島の戦いが起こりならなかった。 |
将軍
足利義栄
当主・守護
朝倉義景 |
【足利義昭の一乗谷入り】
1565(永禄8)年、三好氏の家臣だった松永久秀が幕府の実権を握り、将軍足利義輝を暗殺して義栄をつけた。越前で犬追物や曲水の宴を開くなど文化的色彩を強めていた義景は、義輝の弟で奈良の興福寺一乗院門主の覚慶の奈良からの脱出に力を貸す。覚慶は義昭(最初義秋)と名乗り、最初は若狭の武田氏を頼るが、武田氏の内紛で1566年朝倉を頼り敦賀に移り、その後義景が一乗谷に安養寺御所を作り迎えた。翌年には南陽寺で桜の下での宴が行われた。朝倉の絶頂時だった。また先の関白の二条晴良を招いて義昭の元服の儀式も行われた。義昭の朝廷で加越の本格的な和議が成立。本願寺との同盟への流れができていく。 |
将軍
足利義昭
当主・守護
朝倉義景
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【義昭美濃へ】
義景は長男阿君(くまぎみ)を幼くして亡くし、意気消沈し上洛にも意欲を見せないのを義昭が嫌い、1568(永禄11)年織田信長を頼って美濃へ向かった。一乗谷滞在は9ヶ月だった。信長はすぐに上京して幕府を再興する。 |
将軍
足利義昭
当主・守護
朝倉義景
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【織田・朝倉戦争勃発】
信長は義景に上洛を促すが、応じず敦賀や近江の守りを固める。1570(元亀元)年、信長は徳川家康も連れ若狭から越前に侵攻、敦賀の金ケ崎・天筒城を攻めた。敦賀の守りは一気にうち破られ一乗谷に迫られようとしたとき、近江の浅井が縁故関係より長年の朝倉との同盟関係を重視して立ち、信長はあわてて京まで退いた。
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将軍
足利義昭
当主・守護
朝倉義景 |
【姉川・比叡山の戦い】
越前侵攻の2ヶ月後、京から岐阜に戻った信長は浅井攻めにとりかかる。姉川をはさんで朝倉・浅井連合軍と織田・徳川連合軍が対峙。朝倉と徳川、浅井と織田がぶつかりあう形となり、浅井は織田に対して押し気味だったが、義景が参加せず朝倉景健を大将とする朝倉が兵数の少ない徳川に崩されて破れた。ただし織田方の痛手も大きく、前線基地の横山城が奪われたものの小谷城には迫られなかった。
姉川古戦場
その2ヶ月後、本願寺が大阪で反信長で立ち、朝倉・浅井もこれに呼応して出陣した。今度は義景も自ら出陣、湖西を通り比叡山の麓の坂本まで進んだ。朝倉が初めて攻勢にたった。坂本の森可成らを破り、逢坂峠を越え京の近くまで迫った。信長は急いで大阪から引き返し、現在の大津市の宇佐山に陣取り、朝倉・浅井勢は比叡山に登った。信長は比叡山に中立を保つよう求めるも応ぜず、京を守るため動くに動けない苦しい対陣を迫られた。しかし冬が近づくにつれ朝倉に厭戦気分が起こり、正親町天皇と足利義昭の調停という形で互いに兵を引いた。実際は朝倉よりも全国に反織田包囲網ができようとしていた信長の方が苦しい戦いだった。翌年比叡山は信長の焼き討ちに遭う。 |
将軍
足利義昭
当主・守護
朝倉義景
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【家臣の離反相次ぐ】
1571(元亀2)年、義景の娘と本願寺顕如の長子教如との婚約が成立し、同盟がなり朝倉と一向一揆との対立も終わった。翌72年3度目の小谷攻めが行われ、信長は虎御前山に陣を構える。対して義景も小谷の西の大嶽に陣取った。この時朝倉方から重臣の前波吉継父子、続いて富田弥六、毛屋猪介らが信長の陣に走った。前波は後に越前の守護となるなど、裏切りの功を信長から高くかわれた。対陣が長引くうちに武田信玄が三河に出陣、信長は最大の危機となる。
しかし三方ケ原合戦の直前兵を越前に引いてしまい、戦略眼のなさを露呈した。 |
将軍
足利義昭
織田信長
当主・守護
朝倉義景
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【朝倉滅亡】
1573(元亀4)年、武田信玄が病に倒れ、信長に公然と反旗を翻した将軍義昭も敗れ、信長包囲網に大きな破れができる。年号を天正に変えて信長は浅井攻めに出陣。援軍を送ろうとした義景は、朝倉景鏡や魚住景固に出陣を命ずるが拒否され、やむえず自ら出陣。木之本まで進んだところで織田の本隊が朝倉に向かい、一気に敗勢に。国境の刀禰坂から疋田へ向かう道で追い立てられた歴戦の主力のほとんどが討ち死に。義景は一乗谷に戻った後、大野郡司の朝倉景鏡の勧めで大野に逃れるが景鏡の裏切りで自害する。一乗谷も織田軍によって放火され3日3晩燃えたという。 |