百年の栄華、一乗谷
朝倉氏 5代の本拠地があった一乗谷は福井市の南東部にある。室町時代、戦国の城下町として1世紀に渡り栄えた。朝倉氏の時代は、ここで合戦が行われたことはなかったが、その滅亡後朝倉を裏切った旧臣たちと一向一揆との激しい戦いが繰り広げられた。
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多くの観光客が訪れる朝倉氏遺跡 |
一乗谷の入り口、下木戸 |
30年前から計画的に発掘
一乗谷朝倉氏遺跡は、一乗川がつくった谷の中にある。川の上流には佐々木小次郎がツバメ返しを編み出したという伝説の一乗滝はその上流にある。戦前まではわずかに朝倉館前の唐門や山沿いの一部の庭園跡が見えるだけだったが、地元の人が水田や畑地を国に売り払い、1971年に278ヘクタールが国の特別史跡に指定された。それ以後計画的に発掘調査が進められ、大規模発掘によって全国で始めて16世紀当時の有数な城下町の全容が明らかになってきた。
朝倉氏はもともと但馬の豪族で、南北朝の争乱を機に広景が越前に移った。14世紀半ばに幕府から一時所領をもらったものの、守護の斯波氏に押され、家臣化する。広景から7代目の考景が京の応仁の乱で活躍し、越前でも急激に勢力を伸ばし、ついに大名となった。この孝景が戦国大名朝倉氏の初代となる。それから5代義景まで、高い文化と近江、美濃、加賀まで視野に入れた大きな勢力を誇った。
高い町屋の人口密度、屋敷には堀
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上から見た義景館跡の全景 |
義景の館跡から見つかった井戸。後ろは土塁 |
一乗谷は谷の奥(鯖江市側)に城主の館があり、その周辺に有力家臣、川を隔てた西側に商人ら町屋が広がっていた。一部復元された町屋跡を見ると、1軒は間口3間もあるかないかで、狭い。相当に高い人口密度だっただろうと想像される。
朝倉氏最後の当主義景の館跡は幅5bの堀と土塁で囲まれている。唐門と呼ばれる門は、朝倉時代のものでなく、後に作られたとされるが、だれが作らせたかは不明。結城秀康ら代々の越前藩主のだれかか、または秀吉の命によるものという説もある。館内には庭園跡がそっくり出土し、井戸や建物の礎石跡も見つかっている。さらに奥には義景の愛人だった諏訪御前の諏訪館の林泉式の庭園や南陽寺の庭園など、京の寺院にも負けないような庭がある。
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南陽寺の庭園跡 |
義景の館跡の後ろは山になっていて地形を利用した庭園が広がっている |
巨大な石組みで侵入防ぐ
朝倉氏の本来の城は、東側の一乗城山と呼ばれる高さ200メートル以上の山城だった。本丸、2の丸や馬出し、堀切、土塁など縦横に巡らされた城だが、結局この山で戦われることはなかった。平地部分の発掘が進む一方で、山城の発掘はほとんど手がつけられていない。
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巨石を組み合わせて枡形をつくる下城戸の復元跡 |
一乗川のそばまで伸びている上城戸の土塁。下は石垣になっている |
福井市から国道158号線を右に折れ、足羽川を渡って遺跡に向かうと福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館を過ぎて最初に目に入るのが「下城戸」と呼ばれる巨大な石組み遺構だ。
一乗谷の町は、谷が膨らんだ場所に作られ、幅が狭くなった部分に敵の侵入を防ぐための二つの城戸を作った。両側は山になっているため、ここを守りきれば大丈夫なはずだった。
1573年(天正1)年、信長に敗れ滅亡したときは、義景は一乗谷から大野へ逃げたため合戦にならなかった。逃げるとき、朝倉側が町に火をかけ、3日3晩燃えたとされている。
一乗谷が戦場となったのはその後だった。
義景滅亡後、越前支配を争う
朝倉義景を攻め滅ぼした織田信長は、早くから味方に付いた朝倉の旧臣たちに越前の支配を任せた。最初に朝倉を裏切った前波長俊が越前の守護代となり、桂田長俊と名を変えて義景のいた一乗谷に屋敷を構えた。現在の福井市中心部の北庄に明智光秀ら3人を目付として置いた。
越前の国侍たちは同僚だった桂田が支配権を振るうことに国侍は反発した。農民たちも桂田のかける高い年貢を恨んだ。
最も強く反発したのが府中(現武生市)を任された富田長繁だった。同じ時期に朝倉を裏切り、伊勢の合戦でも手柄を上げ、越前の半国は与えられると期待していたのに桂田の下に置かれた。さらに桂田がその府中の領地さえ減らそうと信長に訴えたと聞き、討伐を決意した。
一揆勢ら谷を取り囲む
年貢取り立ての厳しさから不満を持っていた農民に同調を呼びかけ、各地に一揆(いっき)を画策した。1574年1月まず九頭竜川東側の志比の庄、大野や本郷、棗などが続き、反対側の府中の富田にも大軍が集まった。一乗谷を南北から挟み撃ちする形で攻め立てた。
一乗谷が本格的な合戦の場となるのは初めてだった。一乗谷は両側が山で、谷が最も狭くなった部分に上城戸、下城戸という二つの防御施設をつくり侵入者を食い止めようとしてした。
一乗谷が全焼して一年あまりで、町はまだ復興していなかったと見られるが、館は一部建て直され、防御施設は残っていた。からめ手側の下城戸には福井市側から志比勢、美山側から大野勢が打ちかかった。下城戸は、十トンを超える巨石を組み合わせて巨大な石垣で、まっすぐ進入できないよう枡(ます)形の石組となっている。4年前、県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館が復元した。
上下の城戸も大軍防ぎきれず
大手の上城戸には大将の富田や与力の毛屋猪助ら寄せてきた。上城戸は、現在一乗小学校の近くに、高さ六メートルを越える土塁の跡が残っている。合戦当時は長さは百メートルを超え、外側には幅十二メートル、深さ三メートルの水堀があったことが調査で明らかになっている。山際には、脇から矢や鉄砲を放つ施設もあったと見られている。
城戸内の桂田は朝倉始末記によると、「大国守護となり幸運に負けたのか、目を病み日月の光も見えず、暗夜に灯がない状態」という不幸に見舞われていた。大軍に城戸を破られ進入を許すと、一気に敗勢となった。袋のネズミ状の桂田勢は、10万を超える(実際は数万人か)一揆の大軍に殲滅させられてしまった。一部は山を越えて隣の美山町に逃れようとしたが、すぐにみつかり殺されてしまった。
一揆勢は信長が置いた北庄の奉行館にも攻め寄せた。しかし木下祐久ら織田の三人衆は鉄砲をそろえて守りを固め、すきを見せなかった。和議が成立し上方に帰った。
義景館跡の唐門
この戦いの後、一乗谷が顧みられることはなかった。越前の政治の中心は府中、そして北庄と移り、遺跡はこけむし、後には上で水田や畑作が行われるようになった。朝倉氏を偲んで、瀟洒な門を作ったのは誰だったのだろうか。