朝倉氏の若狭支配阻止

美浜の国侍
  6年間の国吉城籠城戦


 越前・若狭の統一を図ろうとした絶頂期の朝倉氏に、若狭の国侍や農民が立ちはだかった。若狭の入り口の小山にある山城に籠城し、押し寄せる大軍を6年にわたって跳ね返し、ついに朝倉の若さ支配の野望をうち砕いた。
 美浜側からみた国吉城

 名門若狭武田氏が内紛
 戦国時代、若狭は名門で守護大名だった、武田氏が支配していた。武田氏は小浜の後瀬山に城を構え、京都側の大飯郡は逸見氏が、越前側の三方郡には粟屋氏が配置されていた。幕府の衰退ともに次第に力が衰え、武田氏の内紛も起こった。当主武田信豊と一門の信孝の争いが起こり、天文7年に小浜代官の粟屋元隆が反乱を起こした。この乱は鎮圧するものの、1558(永禄1)年、当主信豊と息子義統との争いが起こり、信豊が近江に追い出される。その3年後の1561年に、逸見氏が反乱を起こす。武田氏には鎮圧する力はなく、義統は朝倉義景に救援を求め、敦賀軍司の朝倉景紀が若狭に入った。5月に出陣した景紀は武田氏とともに丹後に近い高浜まで進軍し、8月に高浜城を攻略、乱を鎮めた。これで一件落着かと思われたが、佐柿(現在の美浜町佐柿)いた粟屋勝久が朝倉を招き入れたことに強く反発し立ち上がった。若狭と越前の境にある国吉城に籠城した。

右側の高くなっているところが本丸。本丸へは馬の背状の稜線(りょうせん)となっている 佐柿側からみた国吉城。登り口も整備されている

 義景には同心すまじ
  「国吉籠城城記」などによると粟屋は「たとえ武田の敵になろうと義景に同心することは思いもよらない」と郡内に陣ぶれをだし、兵を集めた。   国吉城は、佐柿の粟屋の背後にある山城。高さ二百メートルの通称山頂から尾根の稜線にかけ防御施設が築かれた山城で、山上からは東に美浜、西に三方一帯が見渡せる要衝だった。呼びかけに応じて地侍200人、百姓ら600人が加わった。

 山城から石や大木
 最初の戦いは1563(永禄6)年92日月。朝倉景紀は千騎を率いて天筒城を出発。粟屋は弓鉄砲を持った地侍200人で敦賀と美浜の境の関峠で待ち伏せた。未明の襲撃に驚いた朝倉勢はいったん現在の敦賀市金山まで後退。この間に粟屋勢は本格的なろう城の準備を整える。
 翌3日朝倉方は美浜町山上側から大声を上げて険しい山を登り、城の塀際まで寄せてきた。わざと静まりかえっていた城中から急に数100人が現れ、大石や古木を投げ落とした。朝倉勢は「甲をみじんに砕かれ、胴を打たれ、首の骨を突き折り、手足をうたれ、こらえもできず」ふもとへ逃げ降りた。自分の刀に貫かれ折り重ねて死んだものもいた。討ち取られたもの260人ほどという城方の大勝だった。
 翌年も朝倉は9月に攻めてきた。今度は攻撃を急がず、国吉城から1500メートル東に離れた麓(ふもと)の太田の芳春寺に本陣を置いた。前回のようにまっしぐらに上がることはせず、山頂の南側から迂回して攻め上がった。しかし稜線(りょうせん)が馬の背状で狭く一度に数人しか攻撃できないため三の丸に待ち受けた屈強な射手にいられて退いた。さらに三方側に進んで椿峠側から上がる攻撃も失敗した。

 持久戦にもひるまず
 一気の力攻めは無理と見た朝倉は本格的な持久戦体制をとる。芳春寺の裏山に「中山ノ付け城」と呼ばれた小城を築く。近くの村々に乱入し農作物を奪った。
 3年目の65年はこの付け城を拠点に、粟屋氏の拠点の「耳の庄」まで入り、刈り取り前の田畑を荒らした。城方は多勢に無勢で手が出せず「敵を目の前に知行方の田畑を荒らされること誠に悔しい」思いを募らせた。
 ついに粟屋は夜襲を決意、兵を三手に分け中山ノ付け城に忍び寄った。 火を付けると強風で激しく燃え上がり、同時に鉄砲を放った。寝耳に水の朝倉方は丸腰で飛びだし、粟屋勢は大量の兵糧米を持ち帰った。 その後も朝倉は佐田の狩倉山に新たな城を築き、六八年まで六次にわたる戦いが続くが国吉はびくともせず、ついに朝倉の若狭支配はならなかった。

 山上に本丸の遺構
 現在も国吉城の山容は当時そのまま。美浜の平野がこの山で途切れ、先端は海になる。山がやや低くなった椿峠が若狭と越前の往来の場だった。現在はこの椿峠の下にトンネルが掘られ国道27号線となっている。JR小浜線もこの山のすそのを走っている。登り口は敦賀から向かうと、椿峠を越えて左に折れて佐柿の集落から、地区の人たちによって整備されている。
 国吉城のふもとの寺には、割れた墓石が並ぶ。農民たちが持ち上がり、砕いて投石に使ったものだ。調査で上下二段の本丸、二の丸、三の丸跡が確認されている。本丸は高さ197メートルの通称城山の山頂にある。合戦の様子は「若州三潟郡佐柿国吉城合戦記」「若州三潟郡国吉籠城之記」などに記録されている。

 信長の朝倉攻めの拠点に
 朝倉にたてつき続けた粟屋は、織田信長と朝倉氏の関係が悪化すると当然織田方に付く。1570(元亀元)年、織田信長が初めて朝倉を攻めるため敦賀に向かう途上、粟屋の本拠地、佐柿に泊まった。「わずかの小勢にて数年の間弱気も見せずろう城したこと神妙の至り」とし、地侍たちを残らず引見した。粟屋も長年の遺恨を晴らそうと朝倉景紀らのこもる天筒、金ケ崎城攻めに加わり活躍する。

 粟屋氏、一乗谷に一番乗り
 1573(天正1)年ついに朝倉は信長に滅ぼされた時、一乗谷に一番乗りしたのが粟屋勝久で、朝倉の財宝をひそかに運び出し国吉城に隠したという伝説が残っている。その後勝久は信長の与力として働き、後豊臣秀吉に使えた。勝久が他国へ移った後は、木村常陸介定光が城主となったが、小浜に酒井氏が藩主として入った後は廃城となった。もし国吉城が朝倉によって攻め落とされていたら、信長の朝倉攻めは違ったものになったことは間違いない。