江戸末期、水戸藩は大きく二つに割れた。 尊王攘夷を唱える激派と幕府よりの門閥派の勢力争いが続き、藤田小四郎を中心に攘夷派が1864(文久4)年、筑波山で挙兵、天狗党を名乗り、全国に攘夷の火を広げようとした。しかし頼みの宇都宮藩は動かず、水戸内での内戦に敗れ、幕府から追討令が出された、水戸藩の脱藩者を中心にした天狗勢千人は、同藩出身で禁裏守衛総督として京都にいる徳川慶喜の力を借りて朝廷を中心に攘夷を決行しようとした。水戸藩の家老だった武田耕雲斎を大将に大砲も備えた強力な武装集団が本州中央を強引に京へ進もうとした。各地で幕藩体制による太平の眠りを覚まされた沿道の諸藩と戦い、時には脅し、時には迂回しながら下野(栃木)上野(群馬)を経て、信濃(長野)美濃(岐阜)とほぼ中山道に沿って西下した。 しかし美濃の関ヶ原を前に、一行を阻止しようと大部隊が展開していることがわかった。その中心は、桜田門外の変で水戸藩過激派に激しい敵意を抱く彦根の井伊藩が中心で、浪士に勝ち目はなかった。一行は急きょ、道を北に折れ越美国境を越えて、越前から京を目指すことにした。 季節はもう冬。その年はいつもよりも暖冬気味だったという記録はあるが、それでも越前はすっぽり雪に覆われていた。国境から敦賀まで8日間の道行きは困難を極め、迎える越前の諸藩も戦々恐々の混乱に陥った。越前入りから降服まで18日間、さらに処刑までを数えると2ヶ月以上滞在した越前は一行にとってつらく暗い地であったに違いない。その中では加賀藩の真摯な武士らしい対応が一抹の光だった。処刑者300人を越える日本史史上最も苛烈な処分が行われた天狗党の越前での悲劇の道行きを追った。 (日付は旧暦のもので実際は1ヶ月後の1月のこと) |