木の芽峠越え敦賀の新保へ
 【12月11日】天狗党、一行は雪の木ノ芽峠へ向かって進軍を開始した。
高さ700メートルを越す厳しい峠。雪の中の苦しい行軍だったが、ようやく峠を越え、ふもとの敦賀市の新保に到着した。

新保から見た木の芽峠
 新保へ下る道からは敦賀の街並みが一望できる。山あいの細い坂道を下ってゆくと道沿いに
は、およそ四十戸の家が並んでいる。耕雲斎はこの集落で一番大きな問屋の塚谷家に入り、本陣を置く。しかし下に見る風景は浪士たちの期待したものではなかった。
 加賀藩の1000人をはじめ、小田原、桑名、大垣、会津、小浜、彦根、福井、鯖江、大野、府中など1万を越える大軍が配置についていた。

敦賀市の文化財となっている新保陣屋

陣屋の中は耕雲斎が滞在した時の雰囲
気が残っている
 頼みの慶喜は追討総督
 わずか1・5キロ先のの葉原に、陣取っていた加賀藩の永原甚七郎に武田耕雲斎からの手紙が届いた。「諸藩と戦う気はなく、道を開いてほしい」という内容。加賀藩からの返書で一橋慶喜が追討総督として出向いていることを浪士ははっきりと知らされ、頼りにしていた慶喜が追討の指揮をとっているというショックは大きかった。

新保陣屋の全景。倉は当時のそのまま

加賀藩が陣を置いた葉原
 加賀藩との折衝始まる
   無念の降服 敦賀の町へ
 【12月12日】天狗党と加賀藩との本格的な折衝が始まる。慶喜宛の書状が加賀藩に託される。
 【12月13日】慶喜から加賀藩へ、天狗党を責めるよう密書が届く
 【12月14日】天狗党の困窮を見て加賀藩から、米や馬の飼料が送られる。天狗党は、盗みを働いた隊員を処刑する
 【12月15日】天狗党へ諸藩の総攻撃が17日と決まる。
 【12月16日】加賀藩が天狗党に降服を奨める。
 【12月17日】天狗党から加賀藩に降服を示す書状が届き、攻撃は中止、天狗党から第1陣40人が加賀藩の葉原へ下る。
 【12月19日】第2陣259人が葉原へ
 【12月20日】海津にいる慶喜から耕雲斎の書状を受け取れないとの返答。改めて降服を明確にした書状を書く
 【12月22日】天狗党完全に武装解除
 【12月23日】最初に降服した天狗勢を敦賀の本妙寺へ移動
 【12月24日】武田耕雲斎ら本隊も敦賀へ
 【12月25日】病人、怪我人も敦賀へ移送、新保から完全に天狗党は姿を消す
 
 耕雲斎らが宿泊した新保の屋敷跡の一部は1954年に敦賀市の史跡に指定されている。塀と屋敷内の畳は1998年に補修されたため新しい。特に門はニスがたっぷりと塗られていて一見すると江戸時代のものとはわからない。屋敷内の机の上には訪問者用のノートが置かれ、水戸から大勢の人がやってきていることがわかる。訪れている人の名前が数多く記されていた