明智光秀、謎の越前雌伏時代 

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明智光秀、美濃で敗れ越前へ逃げる

 「謀反人」「裏切り者」「三日天下」などの汚名を着せられてきた明智光秀が、再評価され、明智好きという人も出てきた。しかし織田信長を討ち取った本能寺の変の動機は未だ確定されない。さらに光秀の出自や世に出るまでどこで何をしていたかもはっきりとしない。来年2020年のNHK大河ドラマはこの明智光秀が主人公となる「麒麟がくる」が一年間放送される。

 光秀は美濃で生まれた土岐氏の一族とされる。ローカルな城主の一族で結婚もし子も生まれていたが、国守の斎藤義龍に攻められて敗れ、美濃から油坂峠を越えて越前に逃げたという。この越前時代が謎に包まれている。世に出るまでの雌伏の時だった。

 明智光秀は美濃(岐阜県)で源氏の名門、土岐氏の一族として生まれたという。一族は美濃のローカルな地域を支配していたが、美濃の国主の、斎藤義龍との戦に敗れ1556年。越前との国境の油坂峠を超えて逃げてきた。妻は同じ土岐氏の一族で熙子(ひろこ)という名が伝わっている。婚姻直前に病気になり顔に大きなあばたが残ったため双子の姉妹との婚姻を申し出られたが熙子を選んだ、越前に逃れるとき身重だった熙子を背負って油坂峠を越えたなど愛妻ぶりを示す伝説があり、江戸時代の「明智軍記」などに書かれている。

新田義貞の菩提寺でもある称念寺。北陸道に面し松尾芭蕉も門前を通った

一家でまず時宗の長崎称念寺へ

 光秀は1528年(享禄元年)の生まれとされる。越前にきたのは29歳とんなる。一家がまず越前で暮らしたと考えられるのが坂井市丸岡町長崎の称念寺、当時から「長崎称念寺」と呼ばれていた。時宗の越前の拠点的な寺院だった。南北朝の武将、新田義貞の菩提寺としても知られている。

 長崎称念寺によると戦に敗れた光秀は1556年に時宗の念仏道場で当時の駆け込み寺的存在だった称念寺に逃れ、門前で寺子屋を始めたという。光秀の生まれた年は正確にはわからないが、1528年が有力とされ、これに従えば29歳の時となる。

明智軍記では称念寺に妻子を置いて諸国遍歴したと書かれている。称念寺には、寺の近くに寺子屋を設け子どもたちに教えたとの言い伝えも残る。

天正年間に光秀滞在の記録


称念寺の本堂。細川ガラシャとのゆかりを示すのぼり旗も

 相模の藤沢にあった時宗の遊行寺31代同念上人が1580年に京・奈良を遊行したときの随行者の記録で光秀を「濃州土岐一族牢人」とし、「長崎称念寺の門前に十ヶ年居住していた」と書かれている。後世の江戸時代の軍記明智軍記より光秀が生きていたときの同時代資料の方が信頼できそうで、称念寺も寺子屋をしながら時宗のネットワークで各国の情報も集まり、越前を支配していた朝倉氏の家臣とのつながりもできた。

 朝倉氏の重臣と連歌の会を開く好機が訪れたものの資金がなかった。そこで熙子夫人が自慢の黒髪を売って重臣たちをもてなしたという。

奥の細道の旅、芭蕉が夫婦愛しのぶ

「月さびよ明智が妻の噺(はな)しせむ」。

 「奥の細道」の旅を終えた松尾芭蕉がこの黒髪伝説を念頭に詠んだ句だ。芭蕉は1689年奥の細道の旅をし、吉崎から敦賀までの旅をつづっている。奥の細道には称念寺や光秀は出てこないが、「称念寺は北陸道に面しているため立ち寄った可能性も高く、そのときに黒髪の話を聞いたのでは」と称念寺の人たちは分析する。芭蕉は悲劇の武将が好きで、新田義貞の菩提寺でもある称念寺に関心を持ったはずだ。

 「月さびよ」の句は貧しい暮らしの中伊勢の夫婦で支え合っている弟子に向かって詠んだ句だ。明智夫妻への芭蕉の感動が伝わってくる。

 連歌の会がきっかけとなったのか光秀は朝倉義景に仕える。義景直属でなく、義景の家臣の黒坂氏に仕えたとの説もある。義景の館がある一乗谷の城下町の中でなく少し離れた現在の福井市東大味に屋敷を置いたという。足利幕府の15代将軍、足利義昭も義景のところに身を寄せていた。光秀は義昭や義昭の家臣の細川藤孝と知り合い、将軍の家臣となる。足利義昭の越前滞在中に作られた直臣名簿の「足軽衆」の末尾に「明智」と書かれている。明智光秀飛躍の始まりだった。

福井市東大味の明智神社。この小さな神社を近くの3軒の農家が守ってきた

ひっそりと守ってきた明智神社

 明智神社は神社と名付けられているものの実際は小さな祠だ。織田信長が後に朝倉氏を滅ぼし、越前の一向一揆を根絶やししようとしたときもこの地区は無事だった。地区の西蓮寺に柴田勝家の安堵状が伝わる、地域の人たちはひっそりと光秀を「あけっっぁま」と敬ってきた。屋敷跡に住む3軒の農家が光秀像をまつった祠をひっそりと守ってきた。光秀に対する歴史的評価も変わり現在明智神社として地区全体で奉賛会に作られ管理され、毎年6月13日に命日に法要が営まれている。

 神社の近くに朝倉氏遺跡に繋がる曲がりくねった道がある、山を下ると一乗谷の城下町へ行く前に足利義昭が暮らしていたという「安養寺御所跡」が現れる。明智神社から義景館跡のほぼ中間に御所跡がある。一乗谷の城下町の外で光秀は細川藤孝や義昭らと頻繁に会っていたのではと思われる。

 足利幕府の復権を目指す一乗谷から出て織田信長を頼ろうとした。そのとき信長と足利義昭の連絡役を果たしたのが明智光秀だったのだろう。城下町から少し離れたところに住む光秀は目立たず朝倉氏にも知られることなく動けたのだろう。

細川ガラシャ生誕の地とも書かれた神社の案内板

細川ガラシャの生誕の地どこ

 来年の大河ドラマが明智光秀に決まり、福井県内の2カ所も幟り旗をたてたり、大きな看板を作ったりPRにも力を入れている。

 興味深いのは細川忠興の妻となった光秀の3女のお玉が生まれた地としていることだ。絶世の美人だったといわれるお玉は、光秀が本能寺の変で死んだ後も細川忠興にかくまわれ、後の秀吉の許しも得てそのまま夫婦でいた。光秀夫妻を思い起こさせる愛ある婚姻関係だった。お玉はキリスト教に帰依してガラシャと呼ばれた。しかし関ヶ原の戦いが行われる前、大阪にいたガラシャは豊臣方の人質にされようと屋敷を包囲される中、自ら侍女指示して亡くなってしまう。この悲劇の女性が生まれたのは越前にいた時代だった。その生誕地が称念寺だった、福井市の一乗谷に近い東大味だったかを示す文書はどちらからも見つかっていない。

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